2014年7月7日月曜日

父を送る

ふと思いついて、父の名をネットで検索してみる。

ダメもとのつもりだったが、明らかにそれとわかるものがいくつか引っかかる。いずれも、10年から15年前、まだ元気だった頃に応募したと思われる懸賞の入選作のようだ。


父はフリーのグラフィックデザイナーをやっていた。カレンダーや紙袋、包装紙なんかのデザインを依頼されて、民芸調のイラストデザインを描いていた。

贔屓にしてくれるお得意さんも幾つかあったようだが、一見さんお断りの頑固な商売を貫いていたので、収入は決して安定していなかった。

訃報 2014/3/20 9:36

通勤の地下鉄のなかで、不意に携帯が鳴る。

いったん保留にして地下鉄を降り、電話を取ると動揺した母の声。

それから会社に行き、最低限の仕事を片づける。新幹線と在来線を乗り継いで四国の実家にたどり着く頃には、時計はすでに深夜を回っている。

白い布をめくると、父は口を開いたままで、まるで眠っているようだ。それでいてその気配は、かつてそこに宿っていた何者かがすでに去って、彼がもうこの世の人ではなくなったことを告げている。


かなしみはなかった。

もうずっと前から、ぼくの中では父はいないも同然の存在だったから。



ぼくが子どもの頃から、父は何か気に入らないことがあると、ある日を境に突然口をきかなくなる人だった。そのまま何日、何週間どころか、何年もそんな状態が続くこともあった。

父は家を仕事場にしていたから、口をきかない父がいる家の中はとても気詰まりで、母との会話さえも躊躇われるほどだった。

父が口をきかなくなると、ぼくはいつも訳がわからず、ただ突然に自分が拒絶されてしまったという感覚だけを蓄積させていった。


ぼくが結婚してからも父のそんな性向は変わらなかった。上の子どもがまだ小さかった頃には、帰省したぼくたちを機嫌よく迎えてくれた父だったが、やがて帰省しても口を利いてくれなくなり(何が原因だったのかは相変わらず不明だった)、そのおかげでぼくたち家族はすっかり父母の家とは縁遠くなっていった(妻の実家が九州なので、帰省と言えば四国を素通りして九州へ往復する年が何年も続いた)。

そんな訳で、父とはもう10年くらい口をきいていなかった。

段取り 2014/3/21 00:45

それから葬儀社に電話をかける。1、2時間程でやってきた葬儀社のクルマに父の遺体を乗せると、同じクルマでぼくたちは葬儀社まで行き、あれこれ打合せをする。

葬儀社が出してくるさまざまなオプションを、ぼくは全部断っていった。耳の遠くなった母は、会話が聞き取りにくいこともあって、「任せるわ」とだけ言って傍らで静かに聞いている。

父にはすでに親戚も友人もない。母の親戚はみな東京近辺にいるが、ある事情から最近はすっかり縁遠くなっている。だから弔問客はいない。父も母も、ぼくも無宗教だからお坊さんは呼ばない。もちろんお経も要らない。

一般的な葬儀につきもののあらゆる要素を取り払っていくと、残ったのは出棺と火葬だけだった。葬式なんかやるなと昔から言っていた父も、これなら少なくとも文句は言わないだろう。そして、残されたぼくたちも、余計なものに邪魔されることなく静かに父を見送ることができる。

通夜さえも省略し、ぼくたちは父の遺体を葬儀社に預けると、家に帰る。

けれども、帰りのタクシーでぽつりと母が言う。

「2人だけで見送るのは淋しいなあ」と。

だから、ぼくは所沢の家で待機している妻と子どもたちを呼び寄せることにする。

集合 2014/3/21 17:39

夕刻、改札口で妻と子どもを待つ。

ホームは高架式になっていて、改札からは見えない。上の方で電車が到着し、また出て行く音が聞こえる。

やがて、ホームから降りてくる階段に決して多くはない客の姿。それに紛れてまず妻と、そして今はすっかり妻と肩を並べるくらいに大きくなった娘の姿が現れる。ぼくを見つけた娘が大きく跳び上がるように手を振る。妻が笑顔で手を上げる。その後から、少しはにかんだような顔で息子の姿が現れる。

そのとき不意に涙がこぼれそうになった。

若さというものがこれほどに人の心を救うものだと、そのときぼくははじめて知った。

やがて改札を通り抜けた現在と未来とが、立ち尽くすぼくに抱きついてきた。



全員で実家に集まる。

母が、父の形見のカードホルダーを何冊か出してきた。

そこには、この何年かの間に父が書き溜めていたイラストが収められている。

机に向かうことができず寝たままで描いたせいか、それとも色鉛筆で描いているせいか、それは昔よく父が描いていた民芸調ではなく、どこかポップな趣のイラストだ。

歳をとって若い頃の気持ちに戻ったのか、それとも別の境地を開拓したのか、いずれにしても親父はほんとうに絵が好きだったんだなとそのとき気づく。

同じく絵が好きな娘が、気に入ったイラストを次々とスマートフォンのカメラに収めていく。絵に対する父の嗜好は、ぼくを経由して間違いなく娘に引き継がれたようだ。


川柳を趣味にしていた父は、いくつかのイラストに判じ物のように自分の川柳を描き込んでいた。高度にデフォルメされたその文字はなかなかわかりづらかったが、誰かが解読できるたび声を上げ、ぼくたちはいつかほとんどの絵を解読していた。

そのカードホルダーは、死ぬ1週間くらい前に父から手渡されたのだという。「おれはおまえをしあわせにしてやれんかった」という言葉とともに。

そんなこと結婚してはじめて言われたと母は笑う。



実は、父が逝く一月半ほど前、ぼくは母の手術のために実家に帰っていた。

父との会話の断絶と通信環境のあまりの悪さにうんざりしていたぼくは、実家には泊まらず、病院から近いホテルに宿をとった。

手術が無事終わった後、東京へ帰る前に一度実家に立ち寄った。母は入院の前に、父が食べるパンや牛乳やお粥類を買い貯めていたが、それらの消費状況を見ておこうと思ったのだ。

思いのほかパンがなくなっていたのと、牛乳の賞味期限があやしかったので、近くのスーパーで買い増しして実家に戻った。

最後に家を出る直前、一応母の手術の成功を伝えておこうと、返事があるかどうかはわからなかったが、寝ている父に声をかけた。

すっかり耳が遠くなった父はなかなか目を覚まさなかったが、何度目かの呼びかけで目を開いた。ぼくは父の耳もとで手術は成功したよと告げた。大きな声で何度か繰り返すと、父は「ほうか」とうなづいた。本当に理解したのか、理解することを諦めたのかはわからなかったが。

続けて「パンを補充しといたぞ」と告げた。また何度目かで父はうなづき、ぼくを見ると「ありがとう」と言った。


今思えば、それは10年ぶりの父との会話だったが、同時に父がぼくに向かって発した最初で最後の「ありがとう」だった。

出棺 2014/3/22 10:00

父の遺体を収めた柩に、ぼくたちは順に花を入れていく。

母が最後に、もう使い手のいなくなった色鉛筆を入れる。

それで終わりだった。読経も、多勢の参列者もなく、しずかに父の葬儀は終わった。ぼくたちの望んだとおりに。


そして、父を載せた車は、春の日差しが降り注ぐ郊外への道を延々と走り続ける。

やがて山あいに差しかかる頃、緑に抱かれた水面が不意に目に入る。空の青が水面に溶けて色をなくし、かたちを崩して揺れている。水面は、まるで百万年前もそして百万年後もずっとそうしているかのように、ただ静かに揺れながらそこにあった。


永遠の中で、ぼくたちは生まれ、やがて年老いて、次の世代に何かを託す。子どもたちは新たな力でそれを引き継ぎ、育んでいく。

父が過去となり、ぼくと妻が現在であるならば、子どもたちは未来だ。すべてが移ろい去っていく中で、ここにある現在と、そして未来にぼくは感謝する。



不謹慎かもしれないが、父が逝ってから、母の声が明るくなった。

これまでは父の世話でなかなか遠出もできなかったが、これからは少し遠くまで足を伸ばしてみようかと、電話の向こうで母は笑う。

一般に、夫をなくした妻は長生きするそうだ。母にはせめて長生きをしてほしいと思う。