母の手術で四国に帰った。
父と母が住む実家はいま、ぼくの生まれ故郷から30キロほど離れた町にあり、母の入院する病院もそこにあるのだが、市役所に行く用事があって久方ぶりに生まれ故郷の町を訪れた。
大学入学、就職、結婚とステージが進むにつれ故郷からは足が遠のき、とりわけ実家が引っ越してからはほとんど帰っていなかった。たまに立ち寄ることがあっても、足を踏み入れるのは町のほんの限られたエリアにすぎなかった。
市役所までは普通に歩けば駅から20分程度の道なのだが、それを大幅に遠回りして、下町のかつて住んでいたところ、小学校までの道、それからぐるっと回って、かつて日本一の長さを誇ったアーケード街をめぐって歩いた。
久しぶりの故郷は、歩くほどに思い出が襲ってくる。
考えてみれば、町を出てから30年がたっている。その間に町は姿を変え、それでもひとつひとつ訪ねていけば変わらない風景もあり、むしろ変わってしまった姿がかえって昔の佇まいを呼び起こす風景もある。
いずれであれ、そこにはいつも人の記憶があった。さまざまな人の記憶が場所とセットになって埋まっている。亡霊のように、それはぼくが歩くたびそこかしこから甦ってくる。
みんなどこに行ってしまったのだろう。自分のことは棚に上げて、ぼくは心の中でそう呟く。
彼らの多くがすでにこの町にはおらず、中には行方知れない者もいる。逆に今でもソーシャルネットワークでつながっている者もいる。その意味では、亡霊は人ではなく、人との関係性の方なのだ。かつてこの町で息づいていた関係性はもはやみんな死に絶えて、ぼくはその廃墟を訪ね歩いているかのようだ。
そういえば、学生時代に雑誌づくりの仲間としょっちゅう入り浸っていた喫茶店はどこだったのか。アーケード街を歩きながら、曲がり角ごとにぼくは横丁を覗きこみ、ある場所でこの辺かと見当をつけて曲がってみる。
しかし、50メートルほど歩いてみても建ち並ぶ建築群のほとんどはすでに見慣れないものに変わっていて、そのいずれかが目指す喫茶店の跡なのか、そもそもその道が正しかったのかどうかさえも判別できなくなっている。
あきらめて踵を返した時、目に飛び込んできた風景にぼくは見当識を失った。
横丁の方から人々が行き交うアーケード街を望むその風景は、見慣れない建築群の中で思いがけず出会う往時のままの風景だった。それはまるで今日まで途切れることなく見続けてきた風景であるかのように、ごく自然にぼくの視界に飛び込んできた。
夕暮れの薄闇が忍び寄る中で、ぼくはいま自分が立っているのが30年前の今日のこの場所なのかそれとも30年後の今日のこの場所なのか、にわかにわからなくなっていた。
町を後にする頃にはとっぷりと日が暮れている。
その時間になると、町はすっかりよそよそしく、夜の帳は見知らない旅人のようにぼくを包む。
駅舎もまたすっかり変わってしまった風景のひとつだった。昔の名残を探そうにも、建物自体がかつての場所からは300メートルほどもずれたところに立っているのだ。
改札を越える時、ふと懐かしい匂いに誘われて目をやれば、讃岐うどんの店が構内にある。それはまだ瀬戸大橋が開通する前、ぼくたちが連絡船で瀬戸内海を渡っていた頃に、いつも船上で潮風に吹かれながら食べていたあのうどん屋さんだった(そこにもまたいくつかの人の記憶があった)。
昔はなかった電光掲示板が発車時刻を示している。面会時間が終わるまでに病院に着くには、もう列車に乗る時間だ。
ぼくはホームの方へ歩き出す。