2006年3月8日水曜日

幼稚園への見送り

下の子が幼稚園に入ったばかりの頃に書いた文章がある。

まだ少し早かったのか、幼稚園の門のところには先生も誰もいない。

奴は「じゃあな」といっちょまえに言い放つと、ずんずん中に入っていく。

体操服と上履きのはいった大きな手提げ袋を引きずらないようにしながら。

被った麦ワラ帽子のつばが大きくて、小さな肩と同じくらいだ。

それももう3年近く前のこと。奴も今では元気な小学生の男の子となっている。


妻とこの話をしていたら、それよりさらに4年前の上の子の話になった。

上の子は何につけ臆病だった。同じ登園シーンでも、彼女の場合はこうなる。

まだ少し早かったのか、幼稚園の門のところには先生も誰もいない。

それまで握っていた手を離し、「じゃあね。行ってらっしゃい」と言ってやる。

ほとんど聞こえないような声で「うん」とつぶやくと、門の中へ入っていく。

重そうな手提げ袋を抱えてトボトボと歩いていく背中がそこはかとなく頼りなげだ。

立ち去り難い気持ちを振りきって、駅までの道を急ぐ。

その上の子ももうすぐ6年生になる。今ではすっかり学校生活にも馴染み、「あの頃わたし何考えてたのかなぁ」などとケラケラ笑っている。


それにつけても、兄弟って生まれる順番によってずいぶん立ち位置が違う。

妻は3人兄弟のいちばん上だし、ぼくは一人っ子だ。上の子は(一人っ子も含めて)すべてがはじめて経験するものばかりで、ちょっと大袈裟だが世界を自分で切り拓いていく悲壮感のようなものがついて回る。親の方もはじめてのことばかりだからどこかに不安があって、それも子どもに伝染するのだろう。


そこへいくと二番目以降は、兄や姉のおかげで先の世界を垣間見ていたりするし、親の方も経験済みだから手慣れたものだ。どっちかと言うと、すべてに牧歌的なのである。

もちろん下の子は下の子なりに、不満やら悔しいことやらがいろいろあるのだろうけれど。


どっちにしても、世の中って基本的には不平等だ。そして、そのことが人間の心のさまざまな襞をつくり個性を生み出している。また、それがやる気ややらない気、欲望や非欲望の源泉になっている。それをどう受け入れるかが問題だ。