相変わらず「新選組!」をレンタルビデオで見ている。
DVD1巻あたり45分のドラマが4本も入っているので、なかなか進まない。毎日見られる訳ではないし、貸し出されていることも多い。
やっと第4巻15話が終わったところだ。おかげでまだまだ楽しめる(笑)。
アメリカのドラマを見るようになってから、ここ何年も日本のドラマは見ていなかった。
演技は嘘っぽいし、美男美女ばかり出てきて、それもまた嘘くさい。全然リアルさを感じとれないのだ。
しかし「新選組!」は違う。
登場人物の個性がみんな立っている。出演者もみんな役に成りきっているのか、見ている方も気がつかないうちにドラマに引き込まれている。
同じ日本のドラマでどうしてこんなに違うのだろうかと考えてみた。
大河ドラマだけあって役者の層が厚いということはあるだろう。しかしそれだけだろうか。
ドラマの設定が日常生活とかけ離れているということもありそうだ。かけ離れている分かえって役になりきれるという訳だ。
そう言えば、脚本を書いた三谷幸喜がこんなことを書いている(「三谷幸喜のありふれた生活 冷汗の向こう側」)。
収録後の飲み会で、土方歳三(もちろん土方歳三役の俳優という意味ね^^; 以下同じ)と武田観柳斎があることから一触即発の状態になったという。そこで山南敬助と藤堂平助が局長(近藤勇)を呼びに走った。
別室で飲んでいた近藤(香取慎吾)がやって来て、「ここは局長のオレに免じて収めてくれ」と言ったら、喧嘩が収まったのだそうだ。
「新選組!」の役者たちがいかに役になりきって演じているか、よくわかるエピソードだと思う。
ところで、このドラマを見るもうひとつの楽しみは、新選組を扱った他の小説作品などとの読み比べだ。
ぼくの幕末知識はほとんどが司馬遼太郎によるものなのだが、三谷脚本ではかなり違うタッチで描かれているところも多い。
結局どちらも創作なので、どちらが正しいということはないのだろうが、その中間のどの辺に実際の姿があったのだろうと想像しながら見るのも楽しいものだ。
また、時々気になって司馬作品を本棚から引っ張り出してみる。
そうすると、登場人物がみんな「新選組!」の役者の顔になって出てくる。
芹沢鴨は佐藤浩市の顔をしているし、お梅は鈴木京香だ。山南敬助は堺雅人だし、永倉新八は山口智光だ。
顔が浮かぶことで、前に読んだ時よりも親近感が湧いたり、読後感がだいぶ違ったりする。
そんな訳で、テレパソで録り貯めた映画もたまっているのだが、当分は「新選組!」がすべてに優先する。幸い奥さんも一緒にはまっているので、家庭平和にも一役買っていて、言うことなしである^^;