スペイン・マドリードにある王立造幣局をダリの仮面を被った強盗団が襲う。金を奪って逃げようとした強盗たちは、駆けつけた警察との銃撃戦の後、人質をとっての籠城を余儀なくされる...。
スペイン制作のこのドラマは最近Netflixが力を入れている国別のオリジナル作品のひとつだ。
通常強盗ものと言えば暴力的なシーンを想起しがちだし、冒頭に紹介したようにこのドラマも警察との銃撃戦から幕を開けるのだが、それは見せかけの姿に過ぎないことがすぐに明かされる。
このドラマはむしろ知的で、哲学的で、ファッショナブルで、そしてスペイン的な官能と情熱に彩られた作品なのだ。
たとえば、強盗団を指揮する自称「教授」の存在。彼は造幣局には一歩も踏み入らず、外から電話一本で強盗団をコントロールする。知的ではあるが、垢抜けず、オタク的で、おどおどしていて、およそ暴力とは程遠い存在だ。
そんな彼が、何年もかけて練り上げた強盗計画は、籠城するメンバーと人質と、相対する警察と、さらにはそれらをテレビ越しに見守る一般市民の心理をすべて計算に入れ、組み立てられている。その計画を、彼はまた何ヶ月もかけてメンバーに教え込み、訓練していく。そうした綿密な準備の結実として仕掛けられた「強盗」計画は、必然的に彼の性格を反映してそれ自体が知的な一種の作品となっている。
たとえば、その色彩感覚。強盗団は、人質にも自分たちと同じ赤のジャンプスーツを着せ、さらにダリのマスクをかぶせて、誰が強盗か人質か外にいる警察からは区別がつかないようにするのだが、このジャンプスーツの赤がこのドラマのキーカラーになっている。意図的に彩度を抑えた画面の中で、要所に配された赤はとてもビビッドで官能的だ。
その方針はオープニング映像にも端的に現れている。このドラマのタイトルである「ペーパーハウス」をもじるように、白を基調としたペーパークラフトの内部をカメラが舐めていく中、赤い文字でキャストやスタッフの名前がロールしていく。
たとえば、教授とこの事件のネゴシエイターである女性警部(ラケル)との関係。
電話での交渉の席に着いた警部のヘッドフォンに教授がいきなり囁きかけるのは、「今何を着ている?」というセクハラまがいの言葉だ。かと思うと、現場近くのバーでひと息つくラケルの隣に腰掛け、スマートフォンの電池が切れてしまったラケルに、大胆にも「ぼくのを貸しましょうか」と話しかける(電話では変声器を使っているので、彼だとは気づかれない)。
どこまでが計画のうちで、どこからが逸脱なのかわからないままに二人の関係はやがて抜き差しならない情熱を帯びたものになっていく。
たとえば、その人間描写。こうしたドラマでは、強盗団のメンバーにどれだけ感情移入させられるかが制作者の腕の見せどころだが、その点も申し分ないと言っておこう。
教授がスカウトしてきた強盗団のメンバーは、世間的にはみんなどうしようもない連中だし、実際その破綻ぶりは回を追うごとにたっぷりと描かれていくのだが、逆にそんな連中がどんどん愛おしくなってくるから不思議だ。まさに人質たちだけでなく、視聴者の全員がストックホルム症候群(誘拐事件や監禁事件などの被害者が、加害者である犯人に対して好意的な感情を抱く現象)に陥っていくかのようだ。
そして、コードネーム。教授以外のメンバーは、互いの素性を知ることのないよう全員都市名のコードネームで呼び合う。リーダー格のベルリンを筆頭に、モスクワ、オスロ、ヘルシンキ、ナイロビ、デンバー、リオ、そしてトーキョー。
ちなみにトーキョーのコードネームで呼ばれるのは、魅惑的だが危険な香りのする女性だ。彼女はドラマのナレーター役も兼ねているのだが、常に過去形で語られるそのナレーションはどこか破滅的な結末を予測させつつ、このドラマに哲学的な陰翳を与えている。それでいて、実際の彼女が引き起こす事件の数々は、なかなかにぶっ飛んでいて、教授の緻密な計画をズタズタに引き裂くそのトリックスターぶりにやがて目が離せなくなる。
このドラマ、2シーズン22話ですでに完結しているが、今年(2019年)第3シーズンも公開されるらしい。ぜひお楽しみを。