大学生の頃に住んでいた古いアパートは、裏手が空地になっていた。そこはぼくが住み始めた時からすでに空地で、7年後に引っ越した時も空地のままだった。誰が手入れすることもなく、草が伸び放題で、虫たちの天国のような場所だったから、毎年秋になるともう喧しいくらいの虫の大合唱を聴くことができた。
ある秋の日、アパートの部屋でふと目覚めたら夜の9時を回っていた。夕方帰ってきて、いつの間にか寝入っていたらしい。まだ覚めやらない頭で、そうだ晩飯食わなきゃなあというのと、洗濯もしなきゃあというのを一緒くたにぼんやりと考えているその耳にも、やはり虫たちの大合唱が聴こえていた。
その頃ぼくは金のないただの大学生で、何のスキルも自信も、そして将来の展望も何ひとつ持ち合わせていなかった。
それから30年が経って、その間に就職し、結婚して子どもも持った。そして自分に何ができ何ができないかを知った今でも、ぼくはまだ学生時代のあのアパートにいて、うたた寝の中で長い夢を見ているんじゃないかと思うことがある。次の瞬間には目が覚めて、気がついたらあの虫たちの大合唱の中にいるんじゃないかと。
そこで思い出すふたつの物語がある。
ケン・グリムウッドの小説『リプレイ』は、人生を何度もやり直した男の話だった。43歳の誕生日に心臓発作で命を落とした主人公は、次の瞬間自分が学生時代の寮の自室にいることに気づく。それから彼は前世の記憶を頼りに、失敗したり成功したりしながら新しい人生を生き直していくのだが、43歳の誕生日を迎える度に同じ発作が彼の命を奪い、気がつけばまた学生時代の寮の部屋に戻っている。そうやって、彼は数限りない人生を繰り返していく、そういう話だ。
2度目の人生の中で、彼はとある上流階級の女性と結婚して子どもをつくる。結婚生活は味気ないものだったが、彼にとって最初の人生で得られなかった娘の存在は大きな慰めだった。
しかし、43歳の運命の日が来たとき、彼は最愛の娘グレッチェンがピアノを弾く姿を見ながら心臓発作に襲われる。
次の瞬間、自分が寮の自室に戻っていることを知り、そして同時に最愛の娘を永遠に失ったことを知った主人公は悲嘆に暮れる。いや失っただけであればまだよかった。再びはじまった彼の人生では、彼女は元々存在さえしないのだ。彼女の存在を知る者はひとりもおらず、彼女の存在の痕跡を示すものすら何ひとつない。グレッチェンは、築きあげた彼の(二度目の)人生とともに、永遠に消えてしまったのだ。
もし、ぼくが次の瞬間学生時代のあのアパートで目覚め、その時に前世(?)の記憶を失っていなかったらどうだろうと考える。妻とはその頃すでに知り合っていたから、もう一度出会い直すことはできるかも知れない。そこからいくつもの分岐路を間違えることなく無事結婚にまでこぎつけたとして、しかしその先に生まれてくるのは現在の子どもたちだろうか? もしそうでなかったら?
すべてを忘れ去ってしまうのも悲しいことだが、すべてを覚えているというのはそれ以上に残酷なことだと思う。
もうひとつの物語は、中国の沈既済という人が書いた『枕中記』に語られるお話だ。
主人公盧生(ろせい)は、人生の目標も定まらないまま故郷を出て趙の都邯鄲(かんたん)にやってきたが、出会った道士に自らの不幸を延々と語る。それを聞いた道士は盧生に夢が叶うという枕を差し出す。盧生がその枕を使ってみると、みるみるうちに出世し、挫折と成功を繰り返しながらも最後には国王に仕え、子や孫にも恵まれて幸せな人生を送る。そしてある日眠るように死に、気づいたらそこは道士に出会った場面で、眠る前に火にかけた粥がまだ炊きあがってさえいなかった...。
「邯鄲の夢」とか「一炊の夢」などの故事成語になったこの話は、「人生の栄枯盛衰は儚いものだ」という老荘的なエピソードとして知られる。実際、盧生は「私の欲を払ってくれた」と枕をくれた道士に礼を言い、故郷に帰っていくのだが、彼は夢の中を生き、永遠に失われた愛する者たちに愛惜を感じることはなかったのだろうか。それもまた欲であり、愛もまた儚い幻と言ってしまえばそれまでなのだが。
そんなことを考えるのも、あの学生時代のぼくと現在のぼくと、考えているぼく自身は何も変わってないように感じられ、それでいてあの時と現在の間には30年の日々が確かにあって、外形的にはもうまったく異なる場所であのときには持っていなかったいくつかの幸せを手にしながら現在の自分が生きているというその事実との間に、どうしても解消できない落差を感じるからだろう。
連連(つらつら)とそんなことを考える秋の夜(と書いているうちに季節は冬になり、虫の声もはや絶えてしまった…)。