2011年4月2日土曜日

はじまりの日

今から思えば、それはある意味ではじまりに過ぎなかった。

大地震

3月11日午後2時46分。ガタガタと会議室の机が揺れはじめる。

クライアント筋でもある某通信キャリアの担当者が、ちょうどキャンペーン商品の説明をしている最中のことだ。

いつものようにすぐにやむかと思われたその揺れは、しかし時間とともにおさまるどころかむしろどんどん強くなっていく。

気がついたときには、もう立ち上がることもできないくらいビル全体が激しく揺れている。


何分くらい椅子にしがみついていただろうか。揺れがおさまるとともに、ビルの館内放送が入り、オフィスから人がわらわら出てくる。


その時にはまだ、ぼくたちの誰も事の重大さに気がついていない。

通信キャリアの担当者は中断していた説明を続けようとし、ぼくたちはそんな彼を制止すべきかどうか迷っている。


結局、繰り返される館内放送の避難誘導の声に押されるかたちでビルを出る。キャリアの担当者たちを見送りがてら、目の前にある靖国神社までぞろぞろと歩く。まるで抜き打ちの避難訓練のように。

ちょうど次に来た大きな余震の時だろうか、地面に立っているとそれほどの揺れでもないが、木立越しに振り返ってみるとビルとビルが互いにぶつかり合わんばかりに揺れている。誰かがつけたワンセグの画面には、圧倒的な高さの津波に飲み込まれるどこか東北の町が映っている。



少しずつ事態が現実感を持って迫ってくる。

間断なく鳴り響く救急車のサイレンの音。すぐ近くの九段会館の天井が崩落したというニュース。

携帯回線は電話もショートメールもまったくつながらない。家族との連絡が取れないことに誰もがやきもきしはじめる。

午後早退していたS氏が電車の中に閉じ込められていることをFacebookの画面が伝えてくれる。同じく早退したN君は西武線が止まり、高田馬場に戻ってサイゼリヤで時間を潰しているらしい。


夕方が近くなって雨が降り出す。

「いったん荷物を取りに戻り、その後ただちにビルから退出するように」という指示がビルの管理事務所から出る。

オフィスに戻り、会社の固定電話で家にかけるとあっさりつながる。家族の無事を確認し、ひとまずほっとする。


次の問題はどうやって家に帰るかだ。電車はほとんど動いていないし、退出と言われてもすぐに帰れる手立てはない。ニュースサイトで交通機関の状況を調べると、JRは早々に本日中の全線運休を発表している。

一方、電車に閉じ込められていたS氏は線路の上を次の駅に向かって歩きはじめたようだ。N君はまだ高田馬場のサイゼリヤ。電話が通じにくい中、Facebookが人々の安否を確認する重要な情報源となっている。


そうこうするうち時間が過ぎ、結局オフィスを出たのはほとんどの社員が退出した19時近くだった。

高田馬場へ

「あれ?どうするんですか?」


オフィスを出ようとする背中に、総務のU氏が呼びかけてくる。ぼくの家が所沢だと知っているのだ。

「いやあ…」とぼくは答えに詰まる。


実は何も考えはなかった。

正確には、まずは高田馬場まで行こうとそれだけ思っていた。行けば何とかなるような気がしていた。

高田馬場は毎日通勤に利用している駅というだけでなく、学生時代から何かとなじみの深い場所だ。もし家まで歩く場合、高田馬場がその最短経路上にあるのかどうか正確なところはよくわからないが、そう大きくはハズレていないだろう。

JRはともかく、西武線はもしかすると動き出すかもしれないという期待もあった。


一方、総務の方では水道橋のホテルに部屋を何室か確保してくれていた。

普通に考えればその日はホテルに泊まり、翌日電車が動きはじめてから帰るのが正解だろう。なにしろ所沢までは30キロあるのだ。

実際東村山に住んでいるO氏などは早々にそっちに泊まることを宣言していた。

しかし、何故か自分でもよくわからなかったが、気持ちは高田馬場に向かっていた。とにかく家族のいるところに早く近づきたかった。


結局「考えます」と訳のわからない返事をしてオフィスを後にする。

荻窪に住んでいるS君が靖国通りをまっすぐ行くと言うので、途中まで一緒に歩くことにする(後から思えば靖国神社を突っ切って神楽坂に出、そのまま早稲田通りを行けば1キロは短縮できたのだが)。



通りは、まるでお祭りの夜のように人で溢れている。東京中のすべての人が一遍に歩いているみたいだ。

市ヶ谷駅を過ぎ防衛省庁舎の前を通りかかると、巨大なヘリコプターがバリバリと夜を引き裂きながらゆっくりと庁舎ビルの屋上に着陸しようとしているのが見える。


曙橋のあたりでS君と別れ、東新宿方面へ斜めに折れる。急に人影が減り、それとともに寒さがふいに足元から登ってくる。

スマートフォンのGoogleマップで確認すると、そこからもう少し北に行けば、早大文学部キャンパスの南辺りに出るようだ。懐かしいが、回り道して寄っていく心の余裕はない。


さらに歩きつづけ明治通りに出ると、ふたたび人の数がどっと増える。歩道を歩ききれない人々が車道まではみ出しながら歩いている。

あまりの人の多さに辟易し、大久保二丁目まで北上した後しばらくして脇道に入る。

一本中に入ると、ふたたび人の姿がほとんど見えなくなる。まるで普段と変わらない閑散とした住宅街が、薄暗い街灯に照らされながらひっそりと続く。寒さのせいかだんだん尿意を覚えはじめる。



やがて大きな公園に出る。

ここにも人影はほとんどない。公衆トイレを見つけ用を足して一息つく。Googleマップで調べると西戸山公園となっている。学生時代にはこのあたりまで来たことはなかったが、地図で見ると早大の理工学部キャンパスのすぐ隣のようだ。そこから高田馬場の駅まではそう遠くない。


時計を見ると20時過ぎ。オフィスを出てからすでに1時間半歩いていることになる。

大渋滞

高田馬場に出てみると、駅舎はシャッターを下ろし人々を締め出している。

電話ボックスの前に大勢の人が列をなしている。携帯回線は相変わらずまったくつながらなかったから、みんな公衆電話から連絡を取ろうとしているのだろう。

通り過ぎながら、何気なしにふとみると列の中にN君がいる。

「おーい」と手を振る。



サイゼリヤを閉店で追い出されたらしい。奥さんがこっちに向かっていて、そろそろ着いてもいい頃なのだが、どうやら渋滞にはまっているようだという。

彼の家は武蔵関のあたりだ。「途中まで乗って行きますか」との言葉に、一も二もなく甘えさせてもらうことにする。


ちょっと前に妻から「クルマで迎えに行こうか」というメールが入っていたが、「様子を見てメールする」と答えてあった。道路が相当に渋滞していることはすでにネットでわかっていたし、とても都心までは来れないだろうと思われたからだ。何とか(歩いてでも)郊外に出て、そこからもう一度連絡を入れるつもりだった。

しかし、もしここで武蔵関辺りまで乗せてもらえればだいぶ距離が稼げる。


ほどなく彼の奥さんの運転するクルマがロータリーに到着する。

礼を言って乗せてもらう。妻にもメールを入れ、武蔵関辺りまで乗せてもらうと伝える。すぐに「クルマで迎えに出る」と返事が入る。

だが、クルマが動き出した瞬間に、ぼくは自分の考えが甘かったことを知る。


渋滞だということはわかっていた。だがその程度についてはまったく認識が甘かった。

早稲田通りに乗り入れたクルマは、10分たっても20分たっても10メートルも進まない。比喩ではなく明らかに歩いた方が早いくらいだ(歩くにはあまりにも距離がありすぎるのだが)。

妻からもふたたびメールが入ってくる。

所沢も大渋滞だそうだ。所沢ですでにクルマが動かないほどの渋滞なら、その先は推して知るべしだ。前途に垂れ込めていた暗雲が一気に濃くなってくる。



それから、早稲田通り沿いに中野付近までたどり着いた時には、すでにクルマに乗ってから2時間以上がたっていた。

その間にも、歩道を歩く人々の群れは切れ目なく続いている。みんな決して疲れた風ではなく、むしろ強い足取りで歩いていく。

ぼくはN君との会話の合間にそんな人々の姿を見るとはなしに眺め、またなじみの建物を探し(学生時代には中野にすんでいたので、その辺りは知らない場所ではなかった)、手元に視線を戻してはFacebookで会社の同僚たちの動静を知ったりしている。

ある者は家にたどり着き、ある者は会社が用意したホテルに集まり、またある者はまだ歩いている。とっくの昔に諦めて店で一杯やっている者もいるし、どこかの映画館が開放した座席で休んでいる者もいる。

いずれにしても、Facebook経由でどんどん入ってくる情報のおかげで、ひとりで歩いているときからずっと仲間と一緒にいるようだった。


中野付近で足止めを食ったままどれくらいの時間がたっただろうか。

ふいに、東村山辺りで動けずにいる妻からメールが入る。


「西武線が動き出したみたいよ」。


あわてて西武鉄道のサイトをチェックすると、たしかにそんなアナウンスが出ている。

クルマはちょうど中野五丁目の交差点まで来たところだ。

地図で調べると最寄りの駅は新井薬師前。N君の奥さんがすばやくカーナビをチェックし、ハンドルを右に切る。


新井薬師前方面に抜ける道はなぜか空いていた。新井一丁目辺りでN君のクルマを降りると、最後の100メートルくらいを歩く(考えて見れば、その道はまだ結婚する前に中野のぼくの家から所沢まで帰る妻をよく送っていった道だった)。



新井薬師の駅前まで来た時、目の前の踏切を明かりのついた電車が走っていくのが見えた。

帰宅

最初に来た急行は超満員だった。一本見送り、次の各停を待つことにする。


ふと、まだ食事をとっていないことに気づく。とにかく高田馬場まで行き、状況を見てからどこかの店に入ろうと思っていたのだ。そこで偶然N君に出会い、奥さんのクルマが到着して、と展開が慌ただしかったのでまったく忘れてしまっていた。

とは言え、見渡したところで開いている店は見あたらず、家まで我慢することに決める。


やがて来た各停の座席はガラガラだった。

いったん乗ってしまえば、あとはもういつもの帰り道と大差はない。

家の近くの駅に着いた後ついいつものようにTSUTAYAに向かい、閉まっているのを見て地震のことを思い出したほどだ。


結局、家にたどり着いたのは12時過ぎだった。オフィスを出てから5時間以上たっていた。

ぼくを迎えに行っていた妻が東村山から引き返し、家に戻ってきたのはそれから30分くらいも後だった。途中までクルマに乗せてくれたN君たちの方は、1時前にようやく家にたどり着いたそうだ。



こうしてそれぞれの夜を過ごした後、ぼくたちの誰もがひとつの事件が終わったと思っていた。だが、今となっては誰もが知っているように、それは一連の事件のはじまりの1日でしかなかった。そして、これを書いている時点でそれがいつ終わるのか誰も知らない。