2004年10月24日日曜日

A氏のこと

親会社から来た取締役(A氏としよう)と毎日のように喧嘩をしていた時期がある。当時ぼくは経営企画部門のようなところにいて、ぼくなりの問題意識からこの会社をなんとか変えたいと日夜取り組んでいた。


A氏は経営企画担当取締役としてやってきた。2年で親会社に戻り、ある海外担当部門の部長におさまっている。ところで最近会社のある人がA氏と食事をしたらしい。そこでぼくのことが話題にのぼったというのだ。

曰く「中川は元気でやってるか」ということだったらしい。


実はA氏がぼくの会社に来てまもないある日、2時間ほどかけて一緒に会社の将来ビジョンをつくったことがあった。

曰く「こういうものは時間をかければいいってもんじゃない。集中すれば2時間あれば十分だ」ということだった。

ちょうどその頃会社には経営ビジョンめいたものがなくて、それをつくらなくちゃというのがぼくの問題意識のひとつだったから、「よし乗った」というわけで一緒に会議室にこもった。

2時間激論してA4用紙1、2枚のビジョンを書き上げ、社長にも説明した記憶がある。

どうも彼は5年も前のそのことをいまだに覚えていて、「あのときあいつが書いたビジョンは今から考えても最高の出来だった」と言っていたらしいのだ。


ぼくが彼の下にいたのは1年足らずだったが、毎日衝突ばかりしていた。なかなか強引なところのある人で、何かとガツンと押さえつけてくる。すでに書いたようにぼくにはその頃明確にやりたいことがあったから、いちいち押さえつけられるのはかなわなかった。だから本当に毎日口論していた。相当頭にきていたので、立場も考えず歯に衣着せずやりあっていたような気がする。


年度が変わったとき、ぼくはその部門を出た。もうこれ以上A氏の下にはいられないと思ったからだ。そのためにぼくは1枚の企画書を書いた。その頃必要性を感じはじめていたある部門設立についての企画書だった。あちこちに根回しし、メンバーも集めた結果企画書は通り、新年度からぼくはそちらの部門に移ることになった。そのことによって本来やりたかったことからは遠ざかってしまうが、どうせこのままいてもストレートに実現できる見込みはないし、遠回りしても結局はその方が近道なのではないかと考えたのだ。

A氏は、今から思い返せばさみしそうな顔をしていたが、「わかった」と言って認めてくれた。


それから1年以上たって新しい部署での仕事に奔走していたある日、ある人の送別会に出席したぼくは、帰りにA氏から呼び止められた。

「ちょっとつきあえ」と。そのまま送別会の会場だったホテルのバーにはいった。

彼の話は、経営企画部門に戻ってこないかというものだった。「おまえがやらなかったら誰がやるんだ」とまで彼は言った。

何故いまさらそんなことを言うのかわからなかった。「あなたがいるからぼくはそこを出たんでしょ」というのがぼくがそのとき言いたかったことだった。もちろんそうは言わなかったが。

ぼくはその話を断った。「ぼくには今やるべき仕事がありますから」と言い放って。


彼が親会社に帰っていったのはそれからまもなくだった。たぶんあの夜の時点ですでに戻ることが決まっていたのだろう。自分がいなくなった後をぼくに託すつもりだったのだろうか。

彼が去ってしばらくして、ぼくは自分でつくった部署ごと経営企画部門に戻った。A氏に代わって親会社からやってきた別の経営企画担当取締役が引っ張ってくれたからだ。A氏がいなくなったあとなら、そしてそのときやっていた仕事を放り出さなくてすむのなら、ぼくにも異存はなかった。


今になって思えば、彼はぼくをずいぶん評価してくれていた。すっかり忘れていたが、人事考課の際に思いのほか評価が高いのにびっくりした記憶がある。


ぼくは恩を仇で返したのだろうか。


いや、もう一度彼と仕事をするとしても、ぼくはやはり歯に衣着せず彼と喧嘩するだろう。ぼくへの評価を知っていてもなお、やはり彼の下を飛び出そうとするだろう。

自分の間違い以外のことで、やりたいことをあきらめるわけにはいかない。

むしろ(自画自賛気味だが)安易に妥協したり、長いものに巻かれて間違いを間違いと指摘することを放棄しなかったからこそ、彼はぼくを評価してくれたのではないか。彼には悪いがぼくはそう考えることにした。