2004年6月6日日曜日

謎の「なんがでっきょんな」問題

ぼくは香川県生まれだが、なぜか香川県の方言(讃岐弁という)には疎いところがある。いまはもう東京に住んで長くなるので当然だが、住んでいたときにはそれなりに方言でしゃべっていたはずだ。にも関わらず、その頃からちょっとディープな方言になるとニュアンスがわからなかったりすることがあった。親父が東京出身ということもあるのかもしれない。


さて、学生時代のこと。ぼくは帰省中、友人のつてで高松の郵便局でよくアルバイトをしていた。

ある日、仲間と一緒に仕分け作業をしていると、顔見知りの年配の局員がニコニコしながらやってきて、通りすがりにこう言う。

なんがでっきょんな。

この瞬間からぼくの哲学的迷走がはじまる。


ちなみに、この讃岐弁はちょっと文字だけで雰囲気を出すのがむずかしいのだが、なるべく全体を間延びした感じで読んでみてほしい。そして第一アクセントを「で」に置くのがポイントだ。「なぁんがっきょんなぁ」という具合だ。

それはともかく、この言葉を聞いた瞬間からぼくの頭は大混乱に陥る。 なぜなら、「なんがでっきょんな」を標準語にそのまま置き換えると、 「何が出来ているのですか」 または 「何が作られているのですか」 となるからだ。


そのときぼくたちがやっていたのは、単なる郵便物の仕分け作業である。何かが出来ているだとか作られているだとか、そういう生産的な作業ではないのだ。強いて言えば、そこには仕分けられたいくつかのハガキの山が生成されていると言えなくもないのだが...。しかし、もしこれがそういう深いレベルでの問いなのだとすると、いい加減に答えることはできなくなる。

たとえば、自分はいまこの郵便物の仕分け作業という日常的な労働を通して、いったい何を生産しているのだろうか。ここからは何か新たな意味が生成されていると考えることはできるだろうか。日常の背後にあるなにか形而上学的な意味について、ぼくたちはあまりにも無頓着でありすぎるのではないだろうか...。 しかし、こんな風に「にわかアリストテレス」と化して頭の中をフル回転させ、哲学的問いへのもっとも相応しい回答を探すうちにも、問いを発した当の局員の方は、ぼくの背後をとっくに通り過ぎて食堂へ向かうドアの方へ去っていくところだ。


こんなことが何度もあった。郵便局員という仮面をかぶった現代のソフィストたちはいつもニコニコと通りすがりに「なんがでっきょんな」という難問をぼくに投げかけ、いつもぼくはそれに対する正しい答えを見つけ出せず、ソフィストたちはそんなぼくを尻目に遠くへ去ってしまうのだ。

ぼくはそれからしばらくの間、これを「謎の”なんがでっきょんな”問題」と名づけ、来る日も来る日もこの問題を考え抜いた。 そしてある日、目からウロコが落ちるように思い至ったのは、もしかするとこの「なんがでっきょんな」は質問ではないのではないか? ということだ。 大阪弁にも「もうかりまっか」という表現があるが、あれなども標準語に直訳すると「利益はあがっていますか?」となる。しかしもちろん「もうかりまっか」と問い掛けた人は、決して相手の収益状況についての経営的報告を求めたわけではなく、ましてや当該市場における当該商品の適正利潤についての詳細な分析を求めたわけでもなく、単に日常のあいさつがわりに声をかけてみただけなのである。 これと同じで「なんがでっきょんな」も単なるあいさつと捉えてみたらどうだろうか。言い換えれば、「どう?」とか「どんな調子?」といった感じだ。 そうしてみれば、意味不明にニコニコしていた郵便局のソフィストたちの表情も、返事を待たずに行ってしまうその態度にも納得がいくというものだ。


こうして謎の「なんがでっきょんな」問題は解決したのだが、一点だけ今も不明な点がある。「なんがでっきょんな」と対になる「返し」の文句は何なのだろうか。

「もうかりまっか」には「ぼちぼちでんな」という有名な「返し」がある。だが「なんがでっきょんな」に対してはどう返せばいいのか。「なんもでっきょらんわい」(別に何もできてなどいません)じゃあ喧嘩になりそうだし、「別に」じゃあまりにも素っ気ないし、「なんのなんの」じゃあ何言ってんだかわからないし...。讃岐弁のディープなニュアンスにいまいち疎いぼくには、どうしても適当な返しの言葉が思いつけないのだ。


東京で暮らしているかぎり、恐怖の「なんがでっきょんな」に出会うことはまずなく、とりあえずこの問題を忘れてしまっても生活はしていけるのだが...。


誰か知っていたら教えてほしい。


【2008.10.13追記】

上の問題提起(?)に対し、2008年9月のある日たばきつうこ氏より一通のメールが届いた。長年にわたるぼくのライフワーク的課題について、ようやく解答への道筋が見えてきた気がするので、ここに紹介しよう。


前略。唐突にごめん。遅ればせながら、突然思いだしたんだけど。これ、昭和41年前後の音の記憶ね。


…野良仕事の行きがかりのあぜ道にて

春一っつぁん、ええお日和で。まぁた 今日は なぁんがでっきょんな、えぇー?

えぇ?。(笑)なぁんもたいした事はでっきょらんが~。

ただのぅ、こないだの嵐で、ここらへんが、ごじゃ(無茶苦茶)になってしもうたでなぁ、ぼちぼちなんとかせにゃならんがと思うてからに、思案しとったとこじゃわ。

あ、うちのやつ(家内)なら 奥におるで、声かけてやってくれりゃええけんな。

そういや、丁度ふかしいもが ぎょうさん(沢山)でっきょるとこじゃけん 。遠慮せんと、まあ、ひとつ食べていきまい。

そら、ええとこに来たもんじゃ。呼ばれていこか…。はい、ごめんなさいよっと…。

…なんぞ参考になりますかしらん?