久しぶりにドラマ「のだめカンタービレ」(日本篇)を見直した。
あらためて感じたのは、映像表現におけるその光線の使い方の独特なうまさだ。
第一話のオープニング、舞台はプラハ。ドボルザーク「チェコ組曲」の弦の調べに乗せて駆ける、少年の日の千秋。それに被さるモノローグ。
親愛なるウ゛ィエラ先生‥
露出過剰ぎみのカメラは世界的指揮者ウ゛ィエラ先生と千秋少年の交流をまぶしく映し出し、やがて風景が切り替わるとそこは、現在の千秋の部屋。壁にもたれ物思いに耽る大学生の千秋‥。
逆光になった構図の中で、光の方を見上げる彼の目に映っているのは少年の日の風景か、それともいつか世界の檜舞台に立つはずの自分のイメージか‥。
どちらにしても、目を眩ませるその光がまばゆければまばゆいほど、彼の抱える現在の鬱屈感がむしろ前面に浮かび上がってくる。
再びモノローグ。
親愛なるウ゛ィエラ先生、何故ぼくはここ(日本)にいなければならないんでしょうか‥
あふれるほどの才能を持ち、それを自覚しているだけになおさら、募るのは自分が未だ何者でもない焦燥感。おまけに、ウ゛ィエラ先生の元に海外留学したくても少年の頃の飛行機事故がトラウマとなって、飛行機に乗れないという我が身の歯がゆさ‥。
「オレさま」と言い放ち、「みんなヘタクソ」と切り捨てながら、学内を闊歩する彼の傲慢さはその気持ちの裏返しなのだろうか。
特徴ある光線の演出は、このドラマの随所で使われている。
のだめとの出会いのシーン。どこからか聞こえてくる「月光」の音色に引き寄せられて音楽室を覗きこむ千秋の目に映るのは、赤みを帯びた夕光をバックに一心にピアノを弾くのだめの姿。
また、のだめに介抱された千秋が翌朝彼女の部屋で目覚めたとき、最初に目にするのは朝の光をバックにやはりピアノを弾くのだめの姿だ。
そのまぶしさは、やがて千秋にとって意味を持ちはじめるのだめの存在を予感させる何かであったのだろうか。
いずれも光と影。芸術の崇高な理想と予感。自らの置かれた現実と焦燥。時にハレーションを起こすほど光源に焦点を当てるカメラが際立たせるのは、そのコントラストだ。
登場人物たちのドタバタコメディぶりが際立っているためについ見落としがちだが、そのコントラストこそが「のだめカンタービレ」日本篇を支える通奏低音となっているのであり、そこにこのドラマの魅力の最良の部分がある。
だからこそ、随所に爆笑ネタを散りばめながら、それで終わることなくこの作品はぼくたちの心にしっかりと残ってくる。それは、そこに流れる音楽の美しさのためだけではないだろう。